浄土真宗(真宗大谷派)って?
浄土真宗(じょうどしんしゅう)ってなに?
「浄土真宗」と「親鸞」そういった言葉自体は、学校の歴史の授業などで聞いたことがあり、名前を知っている方は大変多いと思われます。しかし実際にどのような宗派で、浄土真宗の開祖の親鸞聖人とはどういった人物なのか詳しく説明できる人はほとんどいないのではないのでしょうか。浄土真宗の教えは、一般的によく耳にする仏教のイメージと少し違ったり、誤解されている部分があるかもしれません。
仏教とは仏の前でお経を唱えたり、煩悩(欲望)を打ち消す厳しい修行を重ね、悟りを開いて苦しみや迷いから救われることができる宗教。そんなイメージが多いのではないのでしょうか?間違ってはいない部分もありますが、よくよく考えてみると「厳しい修行を耐え抜く選ばれた人が救われる」のであれば、それが様々な理由で出来ない人は見捨てられてしまうのでしょうか。浄土真宗には、どんな人にも命の尊さや私たちの生きる為の道しるべを教えてくれているものなのです。
「浄土真宗」と「親鸞」そういった言葉自体は、学校の歴史の授業などで聞いたことがあり、名前を知っている方は大変多いと思われます。しかし実際にどのような宗派で、浄土真宗の開祖の親鸞聖人とはどういった人物なのか詳しく説明できる人はほとんどいないのではないのでしょうか。浄土真宗の教えは、一般的によく耳にする仏教のイメージと少し違ったり、誤解されている部分があるかもしれません。
仏教とは仏の前でお経を唱えたり、煩悩(欲望)を打ち消す厳しい修行を重ね、悟りを開いて苦しみや迷いから救われることができる宗教。そんなイメージが多いのではないのでしょうか?間違ってはいない部分もありますが、よくよく考えてみると「厳しい修行を耐え抜く選ばれた人が救われる」のであれば、それが様々な理由で出来ない人は見捨てられてしまうのでしょうか。浄土真宗には、どんな人にも命の尊さや私たちの生きる為の道しるべを教えてくれているものなのです。
「聖人」なんて言葉がついて浄土真宗の開祖と聞くとなんだかものすごい偉い雲の上の人物のように感じるかもしれません。実際に熱心なご門徒の方の中には親鸞聖人自信を神仏と同じように途方もない存在のように崇拝してくれる方もいらっしゃいます。しかし、当の親鸞は自らを「愚禿(ぐとく)親鸞」(「愚禿」とは愚かで子供のように未熟な者こと)と名のり。決して遠い存在ではなく、普通の人と同じように悩んだり苦しんだりする「人間らしい」人物でありました。そして日本で初めて僧侶として俗人と同じように肉を食べ、妻を持ちました。これは当時の時代背景や社会情勢から見ると考えられないことだったといいます。その時代僧侶とは今以上に常に厳しい修行を耐え抜き、戒律を守り煩悩に打ち勝つことで悟りを開く、だからこそ人々から尊敬、崇拝されるものだという考えが当たり前だったからです。 しかし親鸞は 肉食妻帯することでその身を堂々と人々に見せ、 自らが煩悩に打ち勝てない身であると知らしめてしまったのです。 じつはそんな親鸞でもはじめは、その厳しい修行に身を置いていた一人でありました。
承安3年(1173)、京都・日野の里に 藤原有範 の子として生まれた親鸞は9歳で出家・得度しました。その後京都比叡山の延暦寺にて人間のもつ苦しみ(生老病死)から救われるための道を見つけるため、つらい修行に励みます。しかし20年間いくら修行をしても、一向に自分が求める救いの道が見えてこず、大変苦悩したといいます。そしてこの地で自分の力でいくら修行をしても苦しみから解放されることが出来ない親鸞は、その葛藤を抱え比叡山を下山し、東山吉水(京都市東山区円山町)の法然(浄土宗の開祖)のもとを訪ね「専修念仏」の教えに出会うのです。それは乱暴に解釈して言ってしまえば「誰でも厳しい修行を積まなくとも、ただ念仏すること(南無阿弥陀仏の六字の名号をとなえること)で救われることができる」というものでありました。 もちろんこれだけを聞いて「なるほど念仏するだけでよいのであれば苦しい修行せずにすむのか。 よし、そうしよう」 と思える人は中々いないと思います 。 親鸞もまた法然のもとに、その後何日も通い詰め自分の疑問に思ったことをひたすら質問をしつづけることとなります。 すべての問答を終えた親鸞は心のまよいが晴れるような喜びと感動を得て、法然の元に弟子入りすることとなりました。
法然の元で親鸞は自らの説くお念仏の教えの基を学びますが、時の権力争いの影響で念仏弾圧を受け、流罪(京都より地方への追放)となり、法然とも離ればなれになってしまいます。
その後流罪先の越後(新潟)の地で、親鸞は煩悩に打ち勝つどころか、極寒の中の厳しい生活で生きるために必死で当時悪行とされていたこともしなければならない人々にで会いました。一日一日をただ精一杯生きるしかない生活の中で、「ただ念仏して、弥陀にたすけられまいらすべし」という法然の教えがいよいよ確かなものとなっていきます。そして親鸞は、我々は念仏するから救われるのではなく、念仏することしかできない身であると気づかされたのではないのでしょうか。お念仏は自分が悪人であるという苦悩を通して、罪悪の自覚をも与えてくれたのです。じぶんを「愚禿」となのる親鸞の教えは、生き方に絶望していた越後の人々に広く受け入られることとなります。
親鸞聖人はその生涯の中で自ら得た教えを『顕浄土真実教行証文類』(けんじょうどしんじつきょうぎょうしょうもんるい)という1冊の書物にまとめました。それが現在私たちの宗派の教義の柱となるもので、略して『教行信証』(きょうぎょうしんしょう)といわれるものです。そこに残された親鸞聖人のお念仏の教えは、やがて全国多くの人々や門弟のこころにひびき、浄土真宗として成り立ってゆくこととなるのです。
真宗大谷派(東本願寺)
東本願寺は、浄土真宗「真宗大谷派」の本山で「真宗本廟」といい、御影堂には宗祖・親鸞聖人の御真影を、阿弥陀堂にはご本尊の阿弥陀如来を安置しています。宗祖親鸞聖人の亡き後、聖人を慕う多くの人々によって聖人の墳墓の地に御真影を安置する廟堂が建てられました。これが東本願寺の始まりです。
東本願寺は、親鸞聖人があきらかにされた本願念仏の教えに出遇い、それによって人として生きる意味を見出し、同朋(とも)の交わりを開く根本道場として聖人亡き後、今日にいたるまで、門徒・同朋のご懇念によって相続されてきました。
親鸞聖人は、師・法然上人との出遇いをとおして「生死出ずべきみち」(凡夫が浄土へ往生する道)を見出されました。人として生きる意味を見失い、また生きる意欲をもなくしている人々に、生きることの真の意味を見出すことのできる依り処を、南無阿弥陀仏、すなわち本願念仏の道として見い出されたのです。
それは混迷の中にあって苦悩する人々にとって大いなる光(信心の智慧)となりました。そして、同じように道を求め、ともに歩もうとする人々を、聖人は「御同朋御同行」として敬われたのです。
どうぞ心静かにご参拝いただき、親鸞聖人があきらかにされた浄土真宗の教えに耳を傾け、お一人お一人の生き方をお念仏の教えに問い尋ねていただきたく存じます。
(東本願寺公式サイトより引用)